揺れる心

かりんを見送ってから4か月が過ぎました。
時々、かりんが旅立ってしまったことを知っている友人や知人から
「新しい家族は迎えないの?」と尋ねられることがあります。

「この子以上の犬はいないから…」と
数年前に旅立った、その子だけを思いながら暮らしている知人。

「再び犬と暮らしたいけれど、年齢的に不安があるから…」と
愛犬を見送られた後、新たに迎えることをキッパリと諦められた友人。

「自分がもっと若ければ、迷わず新しい家族を迎えたけれど…」
そう悩み続けておられたものの、運命的とも思える出会いをされて
成犬後期の犬を迎えることにされた友人。

愛犬を亡くすという辛くて哀しい経験をし、寂しさの中に身を置きながら
それぞれが選ぶその後(または、自然の成り行き)について
ざっくり言ってしまえば、「再び迎えるか、迎えないか」になるのかもしれません。

はて、自分はどうなのか?どうしたいのか?と言うと
前述の三者三様の気持ちが、日替わりで強くなったり弱くなったり。

<チューリップ、スィートピー、マトリカリア>

決定的となる不安要素は、年齢的なことなのかもしれません。
仮に、子犬を迎え、その子がかりんと同じくらい生きてくれたとして
最期を看取る頃には、私は後期高齢者になっています。

なので、はなから子犬を迎えることは考えていませんが
成犬を迎えるとしてもその年齢的なことや、「!」と思える出会いがあるかどうかなど
今考えてもどうしようもないことばかりを思い浮かべてしまいます。

<本日のかりん:5か月>

「犬との暮らしを卒業する」または「再び、犬との暮らしを始める」
どちらを選ぶとしても、私にとっては相当の勇気と覚悟が要ります。
私が後者を選択しようとする場合、年齢的にもそれほどたくさんの猶予はありませんが
揺れる心に身を任せながら、今はできるだけニュートラルな気持ちでいようと思っています。

もふもふ欠乏症

純粋な柴犬よりもトップコートが少なくて柔らかめだったのか
それとも、アンダーコートが多かったのかわかりませんが
かりんの毛はふんわりとしていて、とても柔らかでした。

ですから、かりんに触れると同時に「わぁ~、柔らか~い♪」と
多くの方が言ってくださいました。

<本日のかりん:9歳>

晩年は痩せっぽちになり、肋骨が浮き出るまでになっていましたが
その柔らかくてもふもふな毛のお陰で、それほど目立ちませんでした。

かりんの毛の触り心地は、今でもこの手の中に思い出すことができます。
でも、実際に触れたくて触れたくてたまりません。
只今、【もふもふ欠乏症】にさいなまれている私。
散歩している柴犬さんを見ると、吸い寄せられそうになっちゃいます。

さて、店頭には春の花々が並ぶようになってきました。

<ラナンキュラス モロッコ、スィートピー、ホワイトレースフラワー>

以前から花は好きでしたが、日常的に花を買っていけるという習慣はありませんでした。
でも今は、かりんのお陰で室内に花を飾る楽しみができました。

思い出のオモチャ箱

かりんの思い出を綴っていこうと思ったものの、はたと困ってしまいました。
それは何かというと、画像のチョイスです。

かりんがいた頃は、その時々のことをその時々の画像と共に綴っていたので
「どの画像にしようかな?」と具体的に悩むことはあったのですが
今は、書きたいことが頭に浮かんでも、イメージする画像があるのかないのか
あったとしても、どのフォルダを探せばよいのかまったくもってわかりません。

撮りためていたまんまになっていたかりんの画像を、少し前から整理し始めているのですが
あまりにも多すぎるのに加え、懐かしくて思わず見入ってしまったりするものですから
あっという間に時間が経ってしまいます。

時間を行ったり来たりしながらあれこれ画像を見ていると
鮮明に思い出せることもあれば、すっかり忘れていたりすることも。

まるで、思い出が詰まったオモチャ箱をバーッとひっくり返して
ひとつひとつ手に取っているような、そんな感覚になってきます。

さぁ~、何が出てくるかな?
少しずつ少しずつ、綴っていきましょう。
こうしている瞬間、紛れもなくかりんは私のそばにいるのです。

<本日のかりん:1歳・2歳>

3か月

かりんが旅立ってから3か月が経ちました。
3か月という月日はとても長かったような、また、驚くほどあっという間であったような
両方が入り交じったような不思議な感覚と共に過ぎていきました。

私は美味しくご飯を食べ、仕事に行き、可笑しいことがあればお腹を抱えて大笑いしますし
かりんのいない寂しさだけに浸ることなく、ごくごく普通に日々を送っています。
でも、かりんがいなくなってポッカリ空いてしまった穴は…そのまんまです。

喉の奥にずっと引っかかったまんまの「かりんのいない寂しさ」を
思い切ってゴクンと飲み込んでしまうのも、これまた寂しい気がして
何度も何度も反芻してしまいます。

絶対に哀しくなってしまうから、わざわざ思い出さなくてもよいのに
むしろ忘れてしまってもよいくらいだと思うのに
しばしば、かりんの最期の時を事細かく思い出そうとします。

それは、決してネガティブな気持ちからではなく
かりんは生きて確かにそこにいたけれど、別の次元へ旅立ったのだと
自分に言い聞かせ、それを再確認するためなのかもしれません。

かりんは変幻自在な存在になりました。
私がかりんを思う時は、いつでもどこでもそばにいてくれるのですが
この世で生きているのとは違い、私の記憶の中でしか生きていないので
やっぱり、寂しくて寂しくてたまりません。

命の灯が消えようとする時、大声で何度もかりんの名前を呼びながら
身体を撫でたり揺すったりしました。
まるで、命が尽きるのを懸命に食い止めようとするかのように。
でも、決して苦しそうではないかりんの柔らかな表情を見ていたら
ふっ…と気持ちが変わりました。
このまま静かに穏やかに見送ることが、私の大事な役目なのだと。

そうそう、別れの時、かりんの耳元で私が咄嗟にささやいた言葉は
「虹の橋で待っててね」ではなくて、「帰っておいで」でした。
はてさて、この言葉はかりんの耳に届いているでしょうか。

ワン・クッション

6年前にアルツハイマー型認知症と診断され、要介護1との介護認定を受けながらも
介護サービスを利用しつつ、なんとかかんとか独り暮らしを続けている私の母。
実家から100キロ少し離れた所に住む私は、ほぼ2週間おきに母の様子を見に帰省します。

母は今さっき話したことや体験したことを、信じられないくらい見事に憶えていません。
ですから、壊れたレコードのように同じ話を幾度も繰り返し、同じことを何度も尋ねます。
それでも、イラッとする気持ちを抑えつつ、そこそこ上手く対応できていたのです…今までは。

しかし、ここ最近、イラッとする気持ちを持て余すようになってきて
同じ話を繰り返す母と向かい合うことが、きつく思えてきたのです。
「なんで?」と考えていたら…答えが見つかってしまいました。

そうです!かりんがいないからなのです。
母との会話や対応にイラついたとしても、そこに寝そべるかりんがいたり
かりんの世話をすることで、気持ちがリセットされていたのです。

かりんは、ギスギス・トゲトゲした私の心をふわっと受け止めてくれる
柔らかくて温かい【ワン・クッション】でもあったのです。

先々月からかりんの姿がないのに、まったくもって気づく様子のない母。
かりんがいたことすら忘れてしまったの?
それでも、「あれっ、かりんちゃんは?」の一言を期待してしまいます。